知れば知るほど孤独になる それは幸か不幸か
タイトルは
友人というか、人生の先輩に昨年投げかけられた言葉だ。
そのとき俺は
「事実を知らぬまま生きていくのは、奴隷みたいなもので、例え孤独になったとしてもそれを不幸と言ってしまったら、生を否定していることと同義だ。知ることによって後悔することなど存在しない。」
そんな感じの回答をしたと思う。
それは今でもそう思う。
だが、孤独、忍耐、これは辛いものだ。
不幸ではないが、辛い。
自分がマイノリティに立てば立つほど、理解者は減っていく。
かつて友人だと、理解者だと思っていた関係も、いとも容易く崩れていく。幻想だったと気づく。
助けを求めれば、救われるかも知れないが、自分の成長を否定しているようで、過去と何も変わっていないと認めてしまうようで、その自責の念、意地が助けを拒む。
そもそも、幸か不幸かという概念が嫌いだ。
結局、自己満足に至っているか否かしかそこにはなく、それをオブラートに包んでいる表現にしか聞こえない。
えらく抽象的なんだ。幸せとか不幸とかって表現は。
一番吐き気がするのがその表現でマネタイズしたり意思誘導したりする詐欺師の類だ。
同じ騙すならもっと高度に、芸術的に騙して欲しい。表現が陳腐過ぎて聞くに堪えない、見るに堪えない。
今一度、己の自己満足、目的意識を整理して、再認識して、孤独だろうとなんだろうと
その目的のために為すしか、結局、術はない。